イニゴ家(Dinastía Íñiga)またはバヌ・イニゴは、パンプローナ王国で最初に支配権を握ったと考えられている王家である。
概要
イニゴ家の起源は、記録資料が少ないためいくらか伝説が含まれている。イスラム教徒がナバラにまで到達した時に2つの派閥が形成された。1つはカロリング朝の保護を受け入れることに賛成する派、もう1つはコルドバのアミールとの合意を尊重することに賛成するイニゴ家であった。イニゴ家はエブロ川の中流地域を支配していたムラディの一族であるバヌ・カシ家からの支援を受け、同盟を結んだ。
従来より、イニゴ・アリスタがこの王朝の最初の王と見なされており、アンダルシアの年代記によると、彼はイニゴの息子であり、王朝の祖と見なされている。現存する文書は少なく不十分であるが、パンプローナが政治の発展の中心として位置付けられている。1世紀の後、パンプローナは西ヨーロッパの他のキリスト教国に匹敵する王国となった。従来より王の称号はパンプローナの最初の領主より用いられていたと考えられているが、支配者たちが当時王の地位を認識していたかどうかを疑う研究者もいる。イニゴ・アリスタの死後、息子のガルシア・イニゲス(851/2年 - 882年頃)が跡を継ぎ、パンプローナの第2代王と見なされ、アストゥリアス王国およびアラゴン伯との和平と最初の同盟を結んだ。しかしバヌ・カシ家との関係も維持しており、キリスト教国の枠組みに完全に収まることはまだなかった。ガルシアの次の君主はフォルトゥン・ガルセス(882年頃 - 905年)であったが、イスラム教徒およびいくつかの町を攻撃し略奪したバヌ・カシ家からの軍事的圧力により、王国の安定を維持するにあたり問題を抱えていた。
王朝の交代は905年に起こり、フォルトゥン・ガルセスは王位を放棄することとなり、イニゴ家と密接につながりのあったヒメノ家のサンチョ・ガルセスが王位についた。王朝の交代が武力によって行われたのか、それともイスラム教徒から領土を守るために、より軍事的に優位であった貴族に王位が自発的に譲渡されたのかは不明である。ヒメノ家が王位に就いたことは、アストゥリアス王国とパリャース伯領において受け入れられ、バヌ・カシ家からの離脱が期待された。サンチョ1世の即位以降、ムスリムやバヌ・カシ家との戦いのため、アストゥリアス王やレオン王との協調政策が取られた。
系図
脚注
参考文献
- レイチェル・バード、狩野美智子 訳 『ナバラ王国の歴史』 彩流社、1995年
- 西川和子 『スペイン中世烈女物語』 彩流社、2019年
関連項目
- ナバラ君主一覧




